東京簡易保険局の勤務の傍ら、卓球にかける情熱はなみなみならぬものがあり、港区に卓球を統括する団体を作ろうとの声に、いち早く組織作りの基礎を作って頂きました。
連盟設立当時は、全日本の監督として世界選手権で活躍され、港区卓球連盟の運営・活動には直接タッチする機会は少なかったものの、いろいろな問題に対し、適切なアドバイスを頂くなど、設立当初には欠かせない存在の方でした。
中村要蔵氏の全盛時代ともいうべき昭和40年代から50年代に掛け、卓球連盟の若手の強豪もあのショートとプッシュには完全に力を封じ込められ、勝利することは非常に困難であったことが鮮明に思い出されます。
独特のグリップの握り方であったが、壁のようなショートストップを武器に全日本の王座に永年君臨しました。連盟の理事長、副会長として創立当初から多大な貢献をされ、今日の港区卓球連盟の強固な基礎を築かれました。
※全日本卓球選手権(年代別)優勝6回(昭和42/49/50/57/58/59年)
港区卓球連盟の創立から生涯を通して一環して組織を動かしてこられ、連盟の活動にご支援頂きました。
出身の沖電気工業の男女卓球部監督として、若い時から自らの技術力アップのみならず卓球部員のレベルアップ、とりわけ女子選手育成には定評があり、港区の大会では常時上位を占めるほどでした。自身選手としても、全日本選手権、東京選手権等の大きな大会に出場するなど、大いに活躍されました。
連盟の運営については、昭和50年以前は、体協との折衝、会員との連絡業務、定期練習会等々の主要業務を中心的にこなし、現在の活動の基礎を作られました。
昭和40年に当連盟の理事に就任し、長谷川喜代太郎氏の職場の後輩として、特に審判関係の活動を重視し、会員に対する卓球ルールの浸透に力を注がれました。
特に日本卓球協会のルール委員時に、現在、試合時に審判員が行っているジェスチャーを考案、世界卓球連盟に提案した結果、昭和58年の世界選手権東京大会から採用され、今では国際審判法として定着しています。
当連盟会員には、大会開会式等を利用し、ルール改正の最新情報を常に提供するなどして、ルールに則ったプレーを心掛けるよう呼びかけられました。
また、昭和50年4月より現在まで続いている卓球教室の企画・運営・マニュアル作成などを中心的に行い、港区民等の卓球底辺拡大に貢献されております。
平成に入り、港区体育協会の理事となり、卓球以外のスポーツの振興にも尽力されております。
港区卓球連盟・副会長 横須賀成良
港区卓球連盟創立55周年の記念すべき年にあたり、私の卓球活動の一端を寄稿させていただく機会を与えられたことに感謝いたします。
「ジェスチャーは、言語上の問題を解決する一助となる」が私の持論である。
この必要性を考えたのが、32年前の昭和52年頃である。この年、ある大会の打ち合わせ後、海藤栄治氏(東京中日新聞)と浅田修二氏(共同通信社運動部)の両氏から「卓球競技は、選手だけが勝負にこだわり、観衆に何もアピールするものがない。何とか考えるように。」と言われ、自分の考えている「ジェスチャーの統一」について話したところ、「新聞でもバックアップするよ。」と心強い返事。関東学連執行部の了解をとり、「卓球を観衆と共に…」も視野に、紆余曲折はあったが、昭和54年秋季リーグから六種類のジェスチャーを採用しスタートした。
観衆にアピールするため白や黄色の手袋も使用したが、一部役員からの批判もあった。しかし、リーグ戦中観客からのアンケートを集約した結果が私を勇気づけた。
第37回世界卓球選手権東京大会が昭和58年に開催が決定し、大会を運営する役員として、昭和56年開催された第36回世界卓球選手権大会のノビサド(当時のユーゴスラビア)に派遣された。この機会を最大限に活用するため、卓球競技に「統一ジェスチャーの必要性と東京大会で採用を」と考え、ITTFルール委員長C.クレメット氏に面会し、その必要性を説明したところ「東京大会で採用しましょう。ただし、提案の六種類ではなく、「ポイント、レット、サービスの三種類にしましょう。」と回答があった。この結果、1981年のノビサドにおけるITTFの各年次総会で正式に採用された。
関東学生リーグ戦でスタートした「審判員のジェスチャー」が、世界のヒノキ舞台で採用されたことは、苦労したことよりもその喜びは一言では言い表せない程であった。
日本では、昭和55年から全日本選手権で四種類を採用(ポイント、エッジボール、レット、タイム)、昭和58年には、日本卓球ルールの第2章に「審判員の手による合図」(国際ルールと同じ三種類)が条文化され現在に至っている。
祝 港区卓球連盟創立55周年!ますますの発展をめざします。