連盟の沿革

※創立55周年記念誌より加筆修正

 昭和28年頃は、戦後の日本が徐々に復興し、何とか曲がりなりにも衣食が安定し、心に余裕が持てるようになった時期でもありました。
港区における社会体育関係は、昭和23年4月に設立された港区体育協会の前身である港区体育会が、港区民の体力向上や健康維持・増進に積極的に取組んだ結果、区民の体育についての意識が高まってきたと記憶しております。
 スポーツでは、手軽に、かつ経済的にも余り負担が少なく、また当時の世界のトップレベルに君臨していた「卓球」が国民的人気を集めておりました。
 そのような中で港区卓球連盟は、港区教育委員会の主導で、区内の官公庁・大手企業卓球部、区内在住の卓球愛好者代表等15名で構成された「設立準備委員会」で数回に及ぶ討議・検討を経て、昭和29年4月に設立されました。
 卓球連盟設立を記念し、同年9月に都立三田高校体育館において結成記念団体軟式卓球大会が男子27チーム、女子10チームの参加のもと盛大に開催されました。
 会長は4代目、理事長は5代目で、今後ますます飛躍していくこの時に、過去のそれぞれの時代に、会長、副会長を初めとした役員が一致団結し連盟発展のために、時間と労力を惜しまず活躍し、会員皆様の温かいご協力・ご支援があったことに感謝しつつ、これまでの連盟の活動を振り返ってみることにいたします。


【設立準備と創立】(昭和28年~昭和30年)

沿革1
昭和30年10月26日 第2回港区軟式卓球選手権入賞者

 当時、世界卓球選手権大会全日本監督であった長谷川喜代太郎先生(簡易保険局)のアドバイスを頂きながら、港区内になんとか卓球の統轄団体を創ろうと15名からなる「設立準備委員会」を設置し、港区卓球連盟が昭和29年4月に設立されました。


【連盟の基盤作り】(昭和31年~昭和39年)

 結成当初は、大会を開催するに当たり、大会会場の確保ということが最大の悩みの種でした。教育委員会の方々に公立小中学校体育館の使用について折衝をお願いし、何とか確保できるという状況が長く続きました。また、卓球台の確保も大変で、区内の官公庁・大手企業から卓球台を借用し、前日の夕方からリヤカーで会場まで運搬するという重労働が待ち受けていたのです。
 その当時の役員は、設立準備委員がそのまま継続して連盟の理事に就いたため、年配理事の大半がこのようなきつい準備作業のため脱落していきました。
 このような状況から、若手の理事就任についてはなかなか難しいものがあり、当面は責任感旺盛な役員の少数精鋭主義で連盟の運営を進めることとなりました。この少数精鋭主義は、現在も脈々と引き継がれ港区卓球連盟の原点となっております。
 少数の役員ではなかなか手の回らないところもあることから、大会当日は、別途参加各チームから競技役員をお願いし、協力を仰ぐこととなりました。
 また、中村要蔵新理事長が誕生し、新理事長を中心に役員の確保と小中学校体育館以外の会場確保に奔走し、“せっかく発足した連盟を潰してなるものか”との強い意志で、なんとしても難局を打開しようと知恵を絞った時期でもありました。
 そういう役員の姿に、当時の若い選手の方々が積極的に動いてくれるようになってきました。当時の卓球台は、台の脚の部分を分解して運搬し、ボルトを締めて組み立てるのが普通の時代であり、競技前の開会式の段階で汗だくという有様でした。
 その頃大変お世話になった会場が、青山中学校と比較的長期間にわたり利用させて頂いたのが区立鞆絵小学校(現在は廃校になっています)体育館で、今でも懐かしく思い出されます。
 皆さんに助けられ、なんとか大会を開催しておりましたが、役員は一日も早く区立体育館の実現を望みつつ、今はとにかく頑張るしかない!これを合言葉に前進してきました。
 この時期から、徐々に軟式種目に硬式種目を加え、併せて連盟加入の呼びかけ促進に力を注ぎました。


【苦難の時期】(昭和40年~昭和49年)

沿革2
昭和41年2月8日 山田会長から平山新会長への引継

 昭和40年4月、第2代会長に平山羊介先生を迎え新たな船出となりました。新会長は、港区内でも多方面で活躍されており、特に卓球大会では早朝より駆けつけていただき、役員・選手に積極的に声をかけ激励をするなど、大会を大いに盛り上げて頂きました。
 この年に(財)港区体育協会が創立され、当連盟もその傘下に入りました。それと共に体育祭行事等が増え、広く区民へ参加の呼びかけと協力の要請活動を展開しました。また、この頃の大会から使用球は硬式として一本化することとしました。

沿革3
昭和40年5月 都民大会港区代表団(高円寺体育館)

  一方、大会会場の方は、区立鞆絵小学校体育館、区立青年館体育館や大田区の勤労福祉会館など点々とする中で試合を開催してきました。
 この時代になって、ようやく借用する体育館には少ないながらも卓球台が常設されているところも見られるようになって来ました。
 しかし、試合で使用できる台数は4台から6台程度と少なく、試合方法を男子と女子の試合を午前と午後に分けて行うなどの工夫を行う中で何とか切り抜けてきました。また、試合の全日程が一日で終わらず、複数の優勝チームが出るという珍事もみられました。
 昭和48年、中村理事長が副会長に就任したことに伴い、第2代目理事長に伊東宏氏が就任しました。


【安定の時代】(昭和50年~昭和63年)

 昭和50年、JR田町駅に隣接した「港区スポーツセンター」が完成し、港区体育協会に加盟する各加盟団体は喜びに沸きました。スポーツセンター3階に卓球台16台を常設した卓球専用の競技場が設けられ、連盟の活動拠点となりました。
 しかし、卓球の試合にメインフロアーの使用が認められず、レクレーションホールで卓球台数を削減させることにより、ルール通りの競技領域の確保は無理としても、狭い会場で参加選手の我慢と協力により試合を開催しておりました。
 その一方、当時はスポーツセンターの使用時間が17時までと規制されており、当連盟で最も権威のある選手権大会に限り、昭和58年からJR健康増進センター(品川区)を借用して9年間実施しました。
 昭和57年4月、第3代会長として伊藤英司氏が就任。会長自身も学生時代には卓球部に所属し、専門的なプレーの分析や解説もしばしばで、連盟にとっても力強い会長就任となりました。
 一方、連盟の事業活動も、大きな広がりに発展することとなりました。

1.大会数・種目数の大幅アップ

 スポーツセンターの完成を期に当連盟も、年間事業計画の拡大を図り、大会数、種目数の大幅アップが実現しました。

2.連盟の定期練習会スタート

 毎週木曜日の夜間は連盟の定期練習会(現在は毎週火曜日の夜間)として会員の皆さんに開放し、会員の技術力向上と会員相互の交流の場として、以後多くの会員の方々に活用されております。

3.卓球教室の開催

 教育委員会の委託に基づく、初心者、初級者及び中級者を対象とした卓球教室(当初は「定期練習会」と称していた。)が昭和50年4月から毎週金曜日の夜間に開催されることとなり、現在に至るまで多くの卒業生を輩出してきました。会員同士が知恵を出し合って練習プログラムを作成し、経験豊富な技術指導員(指導員の顔ぶれの中には、世界チャンピョンにも輝いた松崎キミ代さん、大関行江さんも短い期間でしたがおられました。)を卓球教室に派遣し、港区内における卓球愛好者の底辺拡大に大きく貢献してきました。

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大関行江さん
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松崎キミ代さん(写真提供:日本卓球協会)

今では、その卒業生同士がチームを作り、連盟の中核として強豪チームに成長した姿をみるにつけ、卓球教室の歴史を感じられずにはいられません。(なお、昭和50年4月にスタートした「定期練習会」で現在まで続いている種目は卓球のみです。)

4.家庭婦人卓球クラブの台頭

 港区スポーツセンターの完成を機に、港区に在住する家庭婦人の進出には目を見張るものがあり、自主グループが次々と誕生しました。連盟としても、技術レベルの高い人達や卓球を愛好する者を中心としたクラブチームの結成を呼びかけてきました。その結果、PTA、地域単位からスタートし、毎週決まった曜日に定期的に練習会を開催するなどして会員数の増加が図られてきました。最近は、在住・在勤者を中心としたレーディスクラブチームも登録し、レベルの高い試合が数多く見られるようになってきました。
昭和57年4月より、第3代会長に伊藤英司先生を迎え、大きく盛り上がってきていた家庭婦人選手の活躍を祈念し、クイーンズカップ(伊藤会長杯)を提供していただき、港区近隣の各区にも声をかけ、団体オープン卓球大会を開催する運びとなりました。第1回大会(昭和62年12月)には、40チーム近くの参加を得て白熱した好試合が展開されました。

5.社会教育事業への関与

 港区の行政側からの依頼による「家庭婦人大会」の運営、審判講習会の実施、区民無料公開日及び水・木・土曜日の一般公開時における実技指導員の派遣等、広く区民に「親しまれる卓球」を目指し活動を続けております。


【充実の時代】(平成元年~平成21年)

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平成元年3月 伊東理事長の慰労会

 平成元年、伊東理事長が勇退して顧問となり、新たに第3代理事長として横須賀成良氏が就任しました。
元号が改まった平成の当初は、港区はご存知の通り人口流失の影響をもろに受け、卓球連盟登録者も減少するのではないかとの懸念から、理事会等で数年前より前後策について検討を行ってきました。
 平成4年3月の総会において、規約の一部改正を行い、卓球人口の減少に歯止めを掛ける措置を講じると共に、家庭婦人の意見等を十分に把握するため、連盟初の女性理事を誕生させることになりました。また、伊東顧問を副会長に推挙することに代議員の賛同を得て、平成5年度より副会長として連盟に迎え執行体制のより一層の強化を図りました。
 平成8年4月、伊藤会長が勇退され、新たに三浦正英氏が就任されました。現会長三浦氏は、港区港南に本社を置く「㈱サンリツ」の代表取締役で、日本卓球協会等の要職にも就かれている方です。また、㈱サンリツは男女の実業団チームを持ち、日本リーグ、全日本選手権等で大いに活躍しております。(平成15年から女子チームのみ)
平成14年4月、横須賀理事長が副会長に推挙され、新たに第4代理事長として佐々木修氏が就任しました。
平成に入ってからは、底辺の拡大に目を向けジュニア層、中高年層、婦人層といった年代にも配慮し、大会の企画・運営にも力を注いできました。

1.増加する会員数

 年号が平成と改まり、連盟登録会員数が徐々に増加してきました。登録チームは従来の大手企業、官公庁等が港区から他の地区に移転する傾向が高まり、企業チーム等は減少する一方で、新規クラブチームの進出が加速されてきました。また登録会員も大学卓球部で活躍した選手、全日本卓球選手権等で活躍している選手などが加わり、レベルの高い大会が開かれるようになってきました。

2.卓球競技場の狭隘化

 大会が充実してきたものの、会場スペースの問題はスポーツセンターオープン時から指摘してきましたが、毎年の総会等ではより切実な問題として議論されるようになりました。スポーツセンター完成当初は、多種目の競技団体、自主グループ等が第一競技場の確保に苦慮している中、卓球競技は第二競技場を卓球専用として利用させて頂くだけで感謝しておりました。しかし、年とともに大会参加者数は増加し、卓球ルールに規定されている正規の競技領域の半分にも満たない広さで競技を行わなければならないという状況になってきました。
 理事会においても幾度となくその前後策を検討し、会場調整会議においても、第一競技場の確保を幾度となくお願いしてきましたが、「卓球競技は専用競技場があるのではないか」の一言でなかなかメインの競技場の予約が不可能な状況が続いておりました。連盟としても、狭隘による危険回避等から、前・後期の男女リーグ戦を男女別々に実施する、選手権大会や城南六区大会などは民間卓球場(東京SC:現在廃業)を借用し開催する、大会種目の変更と効率的な運用を図る等の施策を行いました。

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ろうあ者卓球同好会のメンバーとの練習会

3.卓球普及の活動

(1) 港区内学校施設での卓球指導

 港区の各地区指導委員からの要請に基づく卓球教室の開催を、積極的に支援してきました。卓球に興味を持つ地域住民の方々と接することは、卓球の底辺拡大・普及という観点からも有意義であり、今後も要請があれば応じていくこととしています。
《これまでの実績》御成門地区(御成門小学校)・麻布地区(笄小学校)・六本木地区(南山小学校)・青山地区(青南小学校)・港南地区(港南小学校)

(2) ろうあ者初心者卓球始動

 平成3年2月より、社会福祉活動の一環として三田地区を活動拠点としている耳の不自由な卓球愛好者を対象とした卓球指導を開始しました。(会場は「港区勤労福祉会館」)
 指導当初は、意志の疎通がうまくとれず教える方も教わる方も苦労の連続でしたが、手話の出来る指導員を入れるなどし、徐々にではありますがスムースな運営が図られるようになりました。
 現在では、長年培ってきた指導者と練習生の信頼を重視し、練習生の意見をその都度聞きつつ、ニーズにあった指導を行うようにしております。また、本練習会の中心となる練習生のリーダーは、長年この練習会に携わっており、各練習生の取りまとめ、日程調整等指導者との意志の疎通もスムースに行われ、充実した練習会となっております。

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元気いっぱいの小中学生

(3) 小・中学生を対象としたジュニア卓球大会

 平成15年からは、卓球愛好者の底辺拡大を図るため、区内や近隣の小中学生を対象にジュニア卓球大会をスタートさせました。区内の大部分の中学校に大会案内を送付し参加を呼びかけるとともに、各地区でジュニア指導に熱心な指導員等にも声をかけ、現在では100名を超えるジュニア選手が参加するようになりました。参加者の中から、将来の日本を背負う選手が出てくれることを願わずにいられません。

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盛況のラージボール卓球大会

(4) 中高年層を対象としたラージボール卓球大会

平成18年からは、中高年を対象としたラージボールオープン卓球大会を開催することとしました。
この大会の開催により、港区卓球連盟として全ての年齢層をカバーした大会を主催することになりました。
 ラージボール卓球は、今では全国津々浦々に普及し競技人口も増大の一途をたどっております。本大会は会場の狭隘化、台の配置が13~14台程度のため多くの選手に声をかけるまでには至っておりませんが、千葉県、神奈川県、埼玉県等の近隣から100名近くの選手が集まり、和気あいあい、時には厳しいゲームを行っております。

(5) ダブルスフェアーの実施

 平成4年3月、会員相互の親睦と交流を図るため、第1回ダブルスフェアーを開催し、親睦第一、勝負は二の次というユニークな企画が大好評を受けました。しかし、内容のマンネリ化が指摘され、平成17年で廃止し、また新たな企画を考えていくこととしました。


【将来への展望】(平成22年以降)

 港区卓球連盟も創立55周年を迎え、これまで諸先輩が築かれてきた活動を継承しつつ、時代のニーズに応じた活動を取り入れながら、また会員の意思を尊重しつつ適正な運営に邁進していきたいと思っております。技術力アップについては、ジュニアの育成強化を図り、港区から国体選手、全日本レベルの選手の輩出、都民体育大会の上位入賞を目指す等があげられます。また、連盟主催の各種大会においては、工夫とアイディアを常に意識し、斬新な企画で会員のための大会を目指していきます。その他、港区体育協会及び城南六区、東京都卓球連盟等の関係諸団体との連携を深め、より一層の飛躍を目指します。